広田と戸田の間

昭和4年に刊行された北尾鐐之助著『近畿景観』の「甲山頂上」の章の冒頭からです。
<この夏から、甲山へ登るのを許されることになった。もっとも、いままでとて、登れば登れたのであるが、林区署で保安保護を名として、一般に入山を許されてなかったので、私もつい、山に入ってみようともしなかったのだ。ただ山のぐるりを廻って、不思議な、この塊状火山の甲のあたまをながめて、またどちらかへ下って行った。>


ここで述べられているように、甲山は私の小学生時代までは塊状火山、すなわちトロイデ型(つり鐘状)火山と考えられていました。確か、小学校のテストでも出ていました。
 
 ところが、多分昭和40年ごろに、「甲山はトロイデ型火山」は間違いで、浸食されてあのような形になったと教えられ、一時は火山でなかったのかと思っていた時期もあったのですが、火山であったことは間違いありません。甲山ファンとして、誕生の様子を整理しておきます。

参考文献は種々ありますが、今回は西宮市立総合教育センター編『西宮の自然ガイド①甲山の自然』からです。

1200万年ほど前、六甲山系の花崗岩を貫いて甲山火山が誕生します。
 噴き出した溶岩は安山岩であり、トロイデ型になる流紋岩質ほど粘り気がなく、かなり遠くまで溶岩は広がったと考えられており、コニーデ型だったのかもしれません。

その火山活動も1000万年ほど前には治まり、次に風化や浸食が始まり、500万年以上の長きにわたり、削り取られた結果、火口付近の火道のあたりだけが残り、現在の形になったそうです。(上の図の一番下の鎖線)

その後、300万年ほど前から100万年ほど前までは海に沈んでいたようです。

ところが30万年ほど前に、日本列島各地が地殻変動をうけるようになり、六甲山は押し出されるように上昇し、この時代に、いたるところに断層ができたそうです。

2万年ほど前の氷期には、海水面が100メートル以上下がり、大阪湾も干上がって陸地になりましたが、氷期が終わった1万年ほど前には、海水面が徐々にあがって甲山の麓まで海になり、その後、現在の国道171号線が海岸線になっていました。


平安時代の『梁塵秘抄』には、
“廣田より戸田へ渡る舟もがな浜のみたけへことづてもせむ”
とい歌が詠まれ、広田と戸田の間を舟で行き来していたことがわかります。

 このような歴史を調べていると、1万年単位で考えると、凄まじい気候変動があり、この先どうなって行くのかと考えてしまいます。